これは、産後3ヶ月ほどのときの話である。産後ハイにも近いものがあったことは自覚している。
お風呂上がり、息子の体の水滴を拭いてから、保湿のクリームを塗る。
その時のルーティンとして、「息子が生涯幸せに暮らせますように」とおまじないをかける。
子供が生まれてから、とにかく息子の幸せを願うようになった。
そしてふと、この子が人生の最期を迎えるとき、私はそばにいられないんだなと思いウルッときた。(もちろん私が先に老衰で死ぬことを前提に)
息子が素敵な人に出会って、大好きな人と一緒になって、幸せな結婚生活を送り、子供や孫、ひ孫に囲まれて、「いい人生だったな」と思いながら最期を迎えられたらいいな—— そんな願いを込めて、丁寧に体全身にクリームを塗る。私がいつかそばにいられない間も、この子の幸せが続きますようにと魔法をかけるように。
そして、ふと気づく。
息子にとっての「幸せの形」は、息子自身が決めるものだ。もちろん私がいるいないにも左右されない。ちょっと傲慢だった。
私は「息子が幸せな結婚をして、子供たちに囲まれて…」と願っていたけれど、それは私自身の価値観にすぎない。
ちなみに、私は結婚して子供を持つことが人生の幸せだとは思っていないはずだった。
…なのに、とっさにそんな未来を願ってしまったあたり、心の奥にはそういう考えがあるのだろう。反省。
将来、息子は結婚しないかもしれない。
同性のパートナーと支え合っているかもしれない。
そして、たとえ結婚しても、子供を持つかどうかは本人たちの選択だ。
私が本当に願うべきは、 息子が息子なりの幸せを見つけられること。親の期待に応えるため、などという理由で将来の選択をして欲しくない。
つい、余計なことを願ってしまったなと反省した。
それからは「おまじない」なんて言わず、ただ淡々とクリームを塗る。
せめて息子の肌が乾燥しないよう、すこやかに保たれることは今願ってよいはずだ。
そして、息子の幸せな未来のために親としてできることを考える。
まずは自分自身が安定したメンタルと体調でいること。
そして、これまでの世代から受け継いできたかもしれない 負の連鎖は、息子に引き継がないと決めること。
私の願いは息子に押し付けず、自分自身で叶えること。
夫婦喧嘩を避けるために私たち大人が精神的に育つよう努力すること。
本当にダメなことはダメだと教えること。
自分の感情をしっかり感じられるように導くこと。
そう、つまり、私にとっての育児は、まず私自身が育つことが大切だと思う。息子に育ててもらっているとも言える。
息子には、安心安全の気持ちの中で育ってほしい。
それだけは、どうしても願いたい。そのために私ができることはやりたいと思っている。
親の願いは、親のもの。
時として、それは子にとって呪いになることもある。
もちろん、幸せを願ってする行動には愛がある。
しかし幸せの形や価値観の押し付けは手放したい。子供を産む前にそれは決めていたはずだった。改めて気づいて見直せたのだから、良かったのかもしれない。
私の人生の中に息子がいるのではなく、息子の人生の中に私がいる。
息子の人生にとって私はただの登場人物の一人にすぎない。
だからこそ、彼には彼が主体となった幸せの形を見つけ、叶えてほしい。
私はそれをそっと見守るだけだ。
…と、ここまで考えて、ふと我に返る。
保湿クリームを塗っていただけなのに、なぜ私はここまで壮大な人生論を展開しているのか。相変わらず、思考が宇宙の果てまで飛んでいきそうな自分に呆れるばかりだった。